ある検察官の捜査物語

    田代 秀雄


小説を書きたいと言う思いは、前からあった。しかし仕事に追われへとへとになって帰宅すると、毎日酒を飲んで寝るのが精一杯だった。言うは安く行うは難しという格言を地でいく生活をしていた。
 しかし、ぼくはあるとき名案を思いついた。そうだ、ネット小説でいこう。それがいい。日記形式で毎日少しずつ書き足していけばいいんだ。そうして最後はまとまったものに仕上げよう。われながら何という名案だ。しかしそう思ったのもつかの間で、あとは文が続かない。
 それでときどき気分転換と言い訳して、また居酒屋通いをしている。二日酔いの朝、深い罪悪感の中で(なんて自分は意志が弱いんだろう)、重い頭を抱え、思い直して、また少しずつこの日記に文を書き足している。
 もしこの日記に小説を書き続けることができるとすれば、それは日夜社会のために私生活を犠牲にして働いている検察官諸君への熱い思いからである。
 この小説は、ある若い検察官の捜査の物語である。



             一 端緒(ホテルで)

 犯罪が証明されるまでは、有罪ではないはずであるが、社会は彼が逮捕されただけで犯人扱いをする。無実であることを証明することは困難である。

 中部地方のある市で、尾林成玉という高利金融業者が殺された。
 一月も終わりに近い大雪の日であった。尾林は自分の山荘の大広間で顔から胸にかけて鋭利な刃物でめった刺しに刺されていた。おびただしい血を流して広間に倒れていた尾林を発見したのは、内妻の青山裕子である。
 傷は、左顔面から左胸部まで七か所に及んでいた。左右の手にも抵抗したときに受けたと見られる傷が数か所ずつついていた。大きな傷は二か所で、左肺を貫いて心臓の近くに達した刺傷は深かった。左頚動脈の一部も切れていた。
 山荘の尾林の書斎は荒らされていた。机の上の書類は散乱していたが、その上にあった現金数万円の入った手提げ金庫は盗まれていない。侵入した者が何らかの書類を捜した疑いがあった。
 尾林の黒いカバンが行方不明になっていた。
 県警はすぐに強盗殺人事件として捜査を開始した。
 県境に検問所が敷かれた。
 警察は付近一帯を探したが凶器は見つかっていない。
 裕子は、「その日の夜は、私は先に山荘から自分で車を運転して自宅に帰ったのです。あの人を待って一緒に帰っていればこういうことにはならなかった」といって泣き崩れた。
警察は最初、裕子を疑った。しかし裕子には、尾林を殺す動機が見当たらなかった。
 尾林の事務所には齋藤英俊という二九歳位の運転手がいた。斉藤は町のごろつきであったが、その押し出しのよさを気に入った斉藤が、債権の取立てに使う目的で雇いいれたということであった。
 その斉藤が、その事件のあった日の夜山荘まで尾林を車に乗せて行き、尾林を山荘に下ろした後、行方不明になったのである。
 警察は斉藤の行方を追ったが、その姿は見つからなかった。
 警察は斉藤を別件の自動車の窃盗容疑で指名手配した。斉藤が尾林の車に乗ったまま行方不明になったからである。
 斉藤が警察に逮捕されたのは、事件が起きておよそ一月が過ぎたころであった。斉藤は山の温泉場に潜んでいたところを、踏み込んだ数人の刑事に取り押さえられたのである。
 斉藤は警察の取調べで容疑を否認した。
 斉藤は検察庁に送検された。
 事件を担当したのは、田中祐介検事である。この長身の若い検察官はたまたま休日出勤で検察庁に出ていたことから、その日身柄送検された斉藤から弁解録取をすることになったのである。
 送致の当日、田中検事は検察庁の取調室で斉藤から事件について弁解を聞いた。斉藤は田中検事の顔をまっすぐに見据えて、「あの日は、社長を降ろした後、まっすぐ帰ったんです。そのまま町に下りて、酒を飲んで、眠っちゃったんですよ。わたしは、そんなだいそれたことはしていませんよ。そりゃあ、車は乗っていきました。借りたんですよ。盗む気持ちなんかこれっぽっちもありませんよ。なんで温泉にしけこんでいたかって?そりゃあ、ばくちですよ。借りができちまって、やくざから追い込みがかかっていたんです。それでね、ほとぼり冷めるまで、しけこんでいたんですわ。あそこの温泉場にはいい女がいてね」と、言った。


 
ホテルの最上階のバーのカウンターは前面が全部ガラス窓で、そこから城址のの石垣の内堀を見渡すことが出来た。堀の水は凍っていた。寒々とした大手門の石垣の上に数羽の鴨が羽を膨らませて止まっていた。
 雪が降り出した。
 田中は遠くの山脈を眺めた。山は白一色であった。
「降ってきたね」
「こまかい雪が、海の方からほんとうに吹雪のように降るのね」
 陽子が言った。
「もうすぐ雪の季節も終わりだよ」
「春が待ち遠しいでしょうね」
「春が遅いからね。ここではね、雪が解けると先を争うようにみんな山へ行くんだ」
「あなたも行くの?」
「僕は渓流に釣りに行く。山にはまだ雪があるけどね」
「まあ」
 田中は陽子の美しい横顔を見た。陽子の細面で色白の顔は冷たい感じを受けるが、その黒い目はいつも真剣で、妖しい力があった。栗色のカールした髪も二人が最後に会った五年前と少しも変わっていなかった。
「箱根湯本に行った時のことを覚えているかい?」田中が言った。
箱根美術館を回ったわね。島田先生も一緒だった。あの時は・・・ホテルの先生の部屋でみんな倒れるまでお酒を飲んだ・・・」
「大学を出てから、僕は島田さんとはずっと会ってはいない」
「島田先生は三年前に退官した・・・なくなったのよ。昨年。辞めていくらもたっていないのに。定年になったら、今度は好きなことがしたいといっていたのに」
「知っている・・・」
 沈黙が続いた。
「島田さんは僕の恩人だったよ。大学を続けられたのは島田さんのおかげだ。島田さんはぼくを大学に残したかった。残ったのはきみだけだった」
「・・・・・・」
「今でも、あのとき島田さんがいうとおり学者になっていればよかったと・・・ふと、思うことがある」
「ごめんなさい・・・」
「きみが悪いんじゃないよ」
 田中は日本海に面した小さな港町で生まれた。港町といっても産業らしい産業のない寒村で、町の住民は細々と漁業に頼っていた。田代の父親の隆造も漁師をしていたが、水揚げも年々少なくなり、田代が大学を卒業するころには船に乗ることもほとんどなくなった。隆造は隣県にできた自動車部品工場へ出稼ぎに行った。
 佐藤陽子は、田中と同じ大学に入学した。大学では二人とも法学研究会という名称の司法試験や国家試験の対策を目的にした研究会に所属した。田中が陽子の二年上で、法学研究会では部長をしていたし、陽子が会計だったから、二人は自然と一緒になることも多かった。田中は次第に陽子に惹かれていった。学生の中には二人が恋人同士だと思っているものも多かった。しかし、貧しかった田中には司法試験の勉強に割く以外に時間の余裕はなかった。また陽子と付き合うだけの金もなかった。大学の生活の後半には、田中はほとんど法学研究会の活動にも出なくなり、下宿で一心不乱に勉強した。そのころは田中は陽子を諦めていた。
 陽子は学内では評判の美人であった。それを陽子がどれだけ自覚していたかはわからない。陽子に言い寄る学生は多かった。しかし陽子は学生には見向きもしなかった。
 陽子は一関隆夫という法学部の講師と付き合うようになっていた。田中は陽子が一関とどういう付き合い方をしたかは知らない。しかし結局は陽子は大学に採用された後、その男とも別れた。
 田中は一人息子だった。田中は両親のために郷里に帰って弁護士になることを決めていた。しかし、父親の隆造は、ある日、「おまえの好きな道に進んだらええ。俺のことは気にすることはねえ。なんとか食っていくことはできる。気持ちを曲げて後悔するな」といった。田中は司法修習の終わりに近づいたころ、進路を弁護士志望から検事に変えたのだった。 
 陽子からの音信は途絶えていた。田中にとって陽子とのことは、もう遠い過去のことであった。
 田中の両親も田中が検事に任官して間もなく病床につき、最初に母が、その後を追うようにして、隆造が死んだ。
 その陽子が、田中が検事をしている県に大学の助教授として赴任してきたのであった。
「また会えるとは思わなかった」
「ちょうど五年。ほんとに早いわ」
「五年になった?」
「ええ。あっという間だった。あれからいろいろなことがあったわ。最初、転勤の話があったとき・・・あなたの生まれ故郷、そのとき一瞬そう思ったの。こちらに来てね。朝日にきらきら光る雪原を見て、これがあなたの話してくれた雪国なんだなって。一緒に冬山に行ったときのこと覚えている?庚申山だった?」
「あの時は、突然ぼくの目の前からきみがいなくなったんだものね」
「死ぬかと思ったわ。落ちたのね」
「きみが落ちた雪穴はずいぶん深かったよ。三メートルはあった」
「歩いていたのが崖の上だったのね。今思いだしてもゾッとする。あの時は体が宙に浮いたと思ったらまっすぐに下に落ちたのね」
「先が見えなかったよ」
「吹雪だったわね。また山に行きたいわ」
「行けるよ」
 雪が強くなった。吹雪であった。雪の合間にかすかに見えていた日本海も見えなくなった。
「ご両親亡くなったって聞いたわ」
「僕が検事になってすぐだった。入院していたからね」
「大変だったでしょう」
「大変だったよ。でも、やることはやったよ」
 少し沈黙があった。
「あなた、りっぱな家に住んでいるんですって?だれかいっていたわ」
「借りているんだ。地元の金持ちが立てた家でね。高台にあるんだよ。日本海に落ちる夕日が見える」
「いちど行って見たいわ。ぜひ」
「来るといい。夏がいいよ」と田中はいってからすぐに、「いつでも待っている」といい直した。
「きれいでしょうね」
「夏には書斎から、海に浮かぶ烏賊釣り船の明かりが点々と見えるんだ。冬はだめだよ」
「冬の日本海は荒れるでしょうね。波は高いの?」
「かなり荒れるよ」
バーテンが氷を取りに外に出た。
「弁護士登録したんだってね?」
「ええ。大学で必要なのよ。ここの大学は、法学部はあるけど、ロースクールがないでしょう。それでね。弁護士として法律実務の教育をやっているの。学長の方針なのよ。このあいだゼミ生をつれて裁判所に傍聴に行ったわ。でも、新米よ。ほとんど事件はないの」
 そういってから、陽子は突然眉をひそめて、
「この間、変な接見をしたの」
「どんな事件?」
「ええ、大変だったわ。その日はわたし当番弁護士だったの。夕方近く、大学の研究室にいると弁護士会から電話があったわ。事件は窃盗だった。自動車の窃盗よ。それで、夜七時半ころだったかしら、わたし、中央警察署で逮捕されていたその被疑者の人と接見したの。二七,八歳くらいの男の人だったわ。その人、とても気味の悪い人で、目が怖かった。動物のような目をしていたの。今思い出してもぞっとする」
陽子が当番弁護士として接見したのは、田中が検察官として弁解を聞いた斉藤であった。それは疑う余地はなかった。
 田中が斉藤から弁解録取をしたのは、休日出勤していたからであって、そういう意味では当番弁護士として偶然に斉藤と接見した陽子と似ていたといってもいいかもしれない。刑事訴訟法に従えば、事件自体は窃盗であるから本来は区検察庁の管轄の事件である。田中は地方検察庁に所属していたが区検察庁の検察官事務取扱いの任命も受けていたから、田中が事件を処理してもおかしくはなかったが、田中の本来の職務ではなかった。主任検察官は区検察庁副検事のなかから選ばれるはずである。
田中は爬虫類のような無表情の斉藤の顔を思い出した。
「その人ね、わたしの顔を見るなり、いきなりニヤッて笑ったのよ。わたしはなんともいえない嫌な気持ちになったわ。でも弁護士として接見に来たんだから気を取り直して彼から話を聞いたの。その人,斉藤さんというんですけど、事件のことはほとんど話さなかった。自分は大丈夫だって。自信満々だった。それより、その人はわたしに、あるところに連絡にいってくれないかって、そんなこと頼むの。わたし、ただの当番弁護士だから、そんなことはできないっていったわ。しかし、その人ずいぶんしつこくそのことをいうのよ。でも、わたしがことわると、こんどは、いつ弁護士になった、どこに事務所がある、電話番号をおしえてほしい、そんなことをしきりにいうの。また来てくれないかともいっていたわ」
「事件のことはいっていなかったんだね?」
「ええ」
 陽子はまゆをひそめた。なにかを真剣に思い出そうとしているようだった。
「そのあとね、つぎの日の夜だった、へんな電話があったわ・・・研究室に。無言電話が二回あったの」
「無言電話?」
 田中は不安なものを感じた。
「誰だかわからないけれど、わたしが電話に出ると、その人何もいわないで黙っているの。ずっと黙っているから、電話を切るとまたすぐに電話がかかってきた。それも無言電話。それから、一時間くらいたったころかしら、男の人から電話があったわ。その人名前を名乗らないの。ただ尾林の親戚だっていうのよ。その人尾林からなにか頼まれなかったかって、そんなことわたしに聞くの。そういうことはお話できませんてわたしが答えると、その人あきらめて電話を切ったわ」
「その人、どんな感じの人だった?」
「とても親戚の人とは思えなかったわ。普通は斉藤さんの安否とかそういうことを聞くでしょう。そういうことはまったくないの。ただわたしから尾林さんから何かを頼まれなかったかって、そういうことだけ聞くのよ。名前をなのらないのだって、おかしいわ。あの人は絶対に親戚なんかじゃないわ」
 陽子は不安そうな顔になった。
「最近おきた殺人事件を知っているかい?」
「ええ、金貸しが殺されたという、あの事件ね。新聞に出ていたわ」
「被害者は尾林という有名な金貸しでね。恨んでいた人も多い。斉藤はその金貸しをやっていた尾林の運転手だったんだよ。陽子さんが接見したのは、その尾林から斉藤が車を窃取したという事件だ」
「ええ」
「殺人事件が起きたのは、西南海地区の山の上だよ。別荘地だ。そこで金貸しの尾林が殺された。斉藤は、事件後に尾林の車に乗ったまま行方不明になっていたんだよ」
「斉藤さんは殺人事件のことは何もいっていなかったわ」
「斉藤はおそらくそのことはなにもいわないはずだ」
「西南海って、あなたの住んでいる近く?」
「山ひとつ向こうだよ」
「金融業者の殺人事件は今週も新聞で特集を組んでたわ。テレビのワイドショーでも放送していた」
「この辺はめったに殺人が起こらないところだからね。犯人が捕まるまではいろいろと大変だよ。困ったことがあったらぼくにいってくれ。なんでもする」
「ええ」
「それから、ぜひ、ぼくのところに来てくれ。待ってる」
「ありがとう。うかがうわ」

                二 検事正

 斉藤は窃盗の被疑事実で勾留された。勾留場所は中央警察署の留置所である。
 斉藤は相変わらず事実を否認していた。
 捜査の主任検察官には、正式に田中が指名された。事件は窃盗であったが、背景に複雑な事情があるというのが、その理由であった。つまり、区検察庁副検事にはこの事件は荷が重かったのである。
 しかし、殺人の取調べる目的で斉藤を自動車の窃盗で逮捕したというのであれば、明らかにそれは別件逮捕であり、違法の疑いがあった。勾留期間が進むにつれて警察の意図が少しずつ明らかになっていった。
 田中が検事正室に入ってから一時間が過ぎようとしていた。
田中はいつもこの検事正室が好きになれなかった。マホガニー製の皮張りの執務机はよいとしても、部屋に一面に敷かれたグレーの毛の長いじゅうたんは成金趣味で、茶色の厚手のカーテンともそぐわなかった。応接用の派手なビロードのソファーも品がなく、まるでどこかの飲み屋の客席を連想させた。
 東南の窓を背にして検事正の執務机が置かれ、その前に会議用の大きなテーブルと革張りの椅子がおかれていた。
 渡辺検事正はその会議用の椅子に座っていた。渡辺検事正は年が五七,八歳くらいであった。背は小さかったが、体はちきれそうに太っていて、いつも縦じまのシャツのうえにズボンつりをつけていた。腹が突き出ていたので、普通のベルトだけではズボンがずり落ちてしまうのである。渡辺検事正は禿げていて丸い頭にははどこを探しても毛らしきものはほとんどなかったが、それでも両耳のあたりにわずかに残った髪の毛を耳の上から無理に持ち上げて頭のてっぺんまでねかせポマードで貼り付けていた。
 渡辺検事正はポケットから皺くちゃになったハンカチを取り出すと、額の汗を拭いそれをまたポケットにしまった。会議用のテーブルの真上が暖房の吹き出し口になっているのである。部屋の中はむっとするほど暖房が利いていた。
「きみは砂糖はいれるのか?ああ、いいか。ところで、佐藤陽子さんこちらの大学に来たんだってね。講師かい?なにを担当しているんだ?このあいだ役所に挨拶に来ていたな。あいにく会えなかったけどね」
「いえ、たしか助教授のはずです。刑事訴訟法と司法実務ときいていますが」
「なにしろ評判の美人だからね。学生にも人気だろう?」
 渡辺検事正はまえに司法研修所の首席検察教官をしていたことがある。陽子はそのときの司法修習生だった。渡辺検事正の受け持ちのクラスではなかったが、陽子を司法修習生のときから知っていたのだった。渡辺検事正は、天は二物を与えずというけれども、才色兼備の彼女はその例外だ、といった。しかし、田中にとって司法修習生の時代は苦い思い出しかなかった。
「例の窃盗ですが、当番弁護士として、彼女が接見しているんです」
「知っているよ。聞いた。ちっとも気にならんな、そんなこと」